プレイステーション用ソフト「ダブルキャスト」の考察記事があったので紹介してみようと思います。ちなみに、この記事はネタバレを含んでますんで、それが嫌な人は注意してくださいね。

「ダブルキャスト」は1998年にソニー・コンピュータエンタテインメントのフルアニメーションアドベンチャーゲーム「やるドラ」シリーズの第1弾として登場しました。

さすがにシリーズの一番最初の作品だけあって、これの後に続く4作品(「季節を抱きしめて」「サンパギータ」「雪割りの花」)中では一番出来が良く評価が高かった作品です。私も当時はとてもハマってしまって、夢中になってやったものです。


■主人公の行動で美月の人格が変わる理由。


以前、その内容についての考察をネットで見つけて、ひじょうに感銘を受けたのですが、今日、かーずSPさんの所で記事へのリンクがあったので、これを機会に紹介してみたいと思います。


■「一夏の幻」…「ダブルキャスト」シナリオ考察ゲームを語ろう


なるほど、深いな。当時、何の考えもナシにやっていた自分が恥ずかしいです。選択肢はただ単に好感度の上下だけではなく、美月の中にある凶暴な美月の人格が現れるかどうかの原因になっていた訳ですね。

多重人格者は本来の人格を守るために、他の人格が出てくると言われます。要するに美月がストレスを感じたり不安な気持ちになると、不安の原因を取り除こうとして、凶暴な人格の美月が現れる。そういう事だったんですね。

凶暴な美月の人格って、なんの脈絡もなく現れてるんじゃなかったんだ。それに本来の人格を押しのけて表れているのでもなく、無意識にしろ、美月の感情によって現れていた人格だったのか。そして彼女が現れるか現れないかは、主人公(=プレイヤー)の選択にかかっていた訳でしたか。

しかも急にスイッチが入って、いきなり凶暴美月の人格が現れるだけではなく、途中何度も凶暴美月の人格が顔を覗かせていた部分がある訳ですね。

通常の美月(志保)と凶暴美月(姉)の人格の2つだけではなく、両方の人格が混ざり合った人格も現れていたのですよ。そう考えたら思い当たる節はたくさんあったように思えます。

ふとした時に違った表情みせたり自分の事を「ボク」と言ったり「わたし」と言ったり。右利きだったり左利きだったり。演技させたら人が変わったような演技ができたり。

しかも最後のシーンでは、美月を裏切らなければならないというのも難しい。最後は(壊れた)美月との関係を清算する意味でも、時間稼ぎという意味でも、美月を裏切る選択をしなければならない。

参照先にあるように、じっくり考察をしなくては、この部分の隠された思惑は読めませんよ。多くのプレイヤーがそんな隠された意図に気付かず、攻略本を見て、訳の分からないうちにエンディングを迎えたに違いない。


■美月は最初から二重人格を演じていた!?


同じサイトにあったもうひとつの考察も面白いので紹介しておきます。


■「存在」への不安〜「ダブルキャスト」における「演じる」ということ ゲームを語ろう



美月は二重人格でなく、全て二重人格のふり、つまり演技であったという考察。精神を病んでいたのは確かだが、それは二重人格ではなかった。また記憶喪失も嘘。最初もそうだけど、狂気発動の時の記憶がないというのも嘘で、しっかり統一した意志を持っている。

上の考察とは前提がまったく異なりますが、これを考慮し、改めてゲームをやってみると、納得できるシーンが多いのに驚きました。

たとえば、最初のラーメン屋のシーン。本当に記憶喪失で、TVに写る医師の顔になにか感じるところがあるのなら、「今テレビに出てた人、なんか見覚えがある」ということくらい言っても問題がないはず。主人公の「野球が好きなの?」という勘違いさえ訂正しようとしないのはおかしい。少なくとも本人は記憶を取り戻したがっていた訳なのだから。「私、テレビを見てた?」とまで言って誤魔化そうとします。

狂気の美月も普段の明るい美月も全部演技。本当の美月(志穂)は表に現れてない。自分を存在を殺して美月になりきろうとした志穂は、自分の存在を否定しつつも、逆にほんとうの自分の存在を誰かに認めてもらいたいという願望もあったのでしょう。

それを否定されたとき、狂気が発動(人格が入れ替わるのではない)して、主人公などに危害を加えたのではないのでしょうか。

島の波止場のでのキスシーンで「存在も…。ボクがこきにいるってわかるの?」「もちろん、君は確かにここにいて、僕の腕の中で必要な存在として成り立ってる」という台詞に心動かされてキスに至ったんだと推測できます。

主人公を演技で騙しつつも、演じてるうちに心揺れる部分もあったのでしょう。不安と恐怖から身を守るために、脅迫概念的に別の自分を演じなければならなかった美月(志穂)。主人公がそんな彼女の一緒にいて安心できる人という存在になることができたとき、彼女は演技を止めて本当の自分で生きていく事ができるようになるんだと思います。そう考えると、なるほどしっくり来ますね。


■グッドエンドだけでは見えない物語の本質


当時の私は攻略本の助けを借りなければゲームをクリアできませんした。もちろん、どうしてそういう選択肢を選ばなければならないのか?その選択にどういう意味があるのか?などいうことは考えもしませんでした。そういうもんなんだろうなーと思って、疑問も持たずに受け入れてしまってました。

ここまでじっくり考えないとこのダブルキャストという作品の本当のすごさは理解できないんですね。偶然にも、この考察サイトを見つけて、理解する事ができましたが、こんな機会でもなければ、一生気付かないところでしたよ。


ただグッドエンドを見るだけではこの物語の本質は見えて来ません。このゲームはグッドエンドを迎える事が目的ではないのです。全てのエンディングを見て初めてこのゲームをクリアしたと言えると思います。このゲームにおいてバッドエンドはゲームオーバーにあらず。それらのエンドも必要な存在なのです。

全てのシナリオを読んで、さまざまな視点から物語を検証していかなくては、このゲームの本質を勘違いしたまま終わってしまいます。全てのエンディングを見たひとでさえ、隠された本質に気付けないかもしれません。

グッドエンドが見れたからいいやと言って攻略を止めた人は、このゲームをぜんぜん理解できていないし、楽しめていないと言わざる得ません。

当時は、脳天気にボケーっとしてやっていたから、裏にこんな理由が隠されていたなんて考えもしませんでした。この考察を読んで「ダブルキャスト」を再評価しましたよ。

こういう深いところまで考えなかった人でも、「ダブルキャスト」好きだったという人もいるでしょう。このゲームの魅力はストーリーの深さだけではないので、そういう好きの形を否定はしません。でも、こういう考察を読んでもう一度プレイすれば、また違った形で、このゲームの魅力を発見できるかもしれません。それもまた一興なのではないでしょうか。


■美月って今で言うヤンデレキャラだよね


それにしても、当時はかなり面食らったものでした。

ただ単に恋愛ものだと思って始めてみれば、ジェノサイド編に突入してなんじゃーこりゃ!と思ったものです。あのジェノサイド編は本編とはまったく違う外伝的なものとばかり当時は思ってましたが、あれも本編にきちんと繋がっていた訳ですね。

ホント、ただの恋愛ものだと油断してたら、えらい目に遭いましたよ。まあ、そういった部分こそ、他の恋愛ゲームと違った、この作品の味でもあるんですけどね。

よく考えてみると美月はヤンデレの走りだったね。当時はヤンデレというものが世の中に認知されていない頃だったので衝撃的でした。

まあ、幼い頃に両親が亡くなって、たった一人の仲の良い姉にいびられて、自分に対して当てつけみたいな形で自殺されたら、精神病んでしまってもおかしくはないかとも思いますね。

主人公にめっちゃ依存してるし、冷たくするとジェノサイドだし、一見平気に見えるけど、実はすごく傷つきやすいし、演技の才能があるから、なかなか本心が見えてこないし、主人公が間違った選択を続けると、狂気が発動してサクッって事になっちゃうし。2重人格とはいえ、通常の美月の人格にも問題はありそう。

ホント、美月ちゃんナメてかかったらえらい目に遭いますよ。物語の中で時々見せる表情の変化、利き腕の変化、台詞の変化。そういう細々とした変化に気付かないと、いきなりの美月の変貌に「え?なんで?どうしてこうなっちゃうの?」って事になります。


真実がわからないままのエンディングが美月といるのになぜバット扱いなのか…そう狂気の人格を孕んだままの美月とつきあい続ける事は、いつかは狂気のスイッチを押してしまう日がくる可能性が高い訳で…その後を想像すると怖いですね。

グッドエンド4は、ストーリーとしてはちゃんと完結するんで、正しいエンディングなんだろうけど、グッドというのには違和感でしたね。またグッドエンド2と3は、過去を切り捨てるという結末。これもしっくりは来ない。結末としてはありだと思うけれど、これも美月は救われていないんではないかと感じます。

やはり本当のハッピーエンドと呼べるのはグッドエンド1だけ。病んだ美月を救えるエンドはこのエンディングだけだと私は思いました。


■やるドラ!はアドベンチャーゲームの理想型


この「ダブルキャスト」を含む「やるドラ」というゲームは、大昔から「アドベンチャーゲーム」好きだった私にとって、まさに理想が現実化した作品だったと言えると思います。

私が初めてプレイしたアドベンチャーゲームはファミコンの「ポートピア連続殺人事件」でしたが、それ以前もアドベンチャーゲーム自体にはずっと興味を持っていました。

パソコンゲームの「ミステリーハウス」や「デゼニランド」「サラダの国のトマト姫」「はーりぃふぉっくす」などに憧れていた時代がありました。パソコン雑誌の記事を見ながら、遊んでみたいと何度思ったことか。友人が自慢げにやる「アルファ」を見ながら悔しい思いとかもしたなあ。子供の私にはアドベンチャーゲームで遊ぶというのはひとつの夢でした。

当時の私にとって、アドベンチャーゲームといえばパソコンゲームで、パソコンというのは子供の私にとっては高価すぎて手に入らないものでした。ファミコンは持ってましたけど、「ポートピア連続殺人事件」が出るまでは、アドベンチャーゲームというものはファミコンソフトには存在しませんでした。

だから、ファミコンにアドベンチャーゲームが出るようになって、みんなドラゴンクエストなどのRPGに夢中になってる中、私はアドベンチャーゲームを好んでやりました。


当時、そんな私が思い描いていたアドベンチャーゲームの究極の形。それはフルアニメーション仕様のアドベンチャーゲームでした。

それまでも口パクや1部シーンだけアニメーションするなどのパートアニメーション仕様のゲームはありましたけど、全てのシーンでアニメションするフルアニメーション仕様というのはありまえんでした。当時のパソコンやゲーム機のスペックではフルアニメーションのゲームなんて到底実現不可能だったのです。

今の若い人がプレイしても、そんなことは当たり前で、なんの感動も抱かないでしょうけど、8色や線画のみの時代からアドベンチャーゲームを見てきた者としては、感激せずにいられませんでした。

ファミコンのディスクシステムでサンソフトが出した「デッド・ゾーン」でちょっとアニメションしただけで感激しましたし、一部声が出ただけでめっちゃ感動した世代ですよ?ほとんど聞き取れないような音声だったとしてもみんなありがたがって聞きました。フルアニメーション、フルボイス仕様のゲームなんてまさに夢のまた夢でしたね。

そんな世代の私にとって、このやるドラ!シリーズは画期的でものすごいアドベンチャーゲームだと感じましたね。まさに長年思い描いてた理想のアドベンチャーゲームの形、こんなアドベンチャーゲームがあればいいのにっていうのが具現化した作品でした。


■シリーズ最初にして最強のゲーム。


そういう訳でこの「やるドラ」の第1弾だった「ダブルキャスト」というゲームはとても印象深い作品でしたね。

あと、主題歌の「door」も、とても気にいっていて、当時、8センチのシングルCDを買ってきて何度もリピートして聴いた覚えがあります。もう10年近く前の話かあ…。そりゃ私も歳取るわな。

このシリーズは「季節を抱きしめて」と「サンパギーダ」は買った覚えがありますね。「季節を抱きしめて」もハマッたなあ。「ダブルキャスト」の時ほど強烈な印象はなかったけれど、まあまあ好きな話だった。「サンパギーダ」はもうひとつと言ったところだったな。「雪割りの花」は結局買いませんでした。

でも、やっぱり「ダブルキャスト」が一番でしたね。キャラデザ、音楽、シナリオ、構成どれをとってもずば抜けていた気がする。ストーリーの意外性もよかったし、その料理の仕方も見事でした。

あとなんだかんだ言ってもヒロインの美月がやはり良かったですね。ヤンデレであってもね。彼女なくしてこの作品は成り立ちません。ある意味彼女の魅力こそがこの作品の魅力だといえなくもないと思います。「ダブルキャスト」というタイトルは主人公と佐久間のことではなく、美月の事を指していると私も思います。

サブキャラもそれぞれ魅力的ではあったんですが、やはりヒロインに魅力があると話が締まりますね。「季節を抱きしめて」は、私的にヒロインの麻由よりトモコの方に感情移入してしまいますもん。


そんな訳で、久々にこの作品の事を思い返したので、ブログで取り上げてみました。近いうちにプレステ、押し入れから引っ張り出してやってみるかな。


※参考※
ダブルキャスト販売促進ムービー








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